今回の建築
長崎次郎書店
熊本城の南西に位置し、かつて5つの城門に囲まれた城内町であった新町地区。電停新町駅のそば新町交差点のたもとに、1874(明治7)年創業の『長崎次郎書店』はあります。かの森鴎外や小泉八雲、夏目漱石といった熊本ゆかりの文豪たちも訪れたといいます。
今回ご紹介する『長崎次郎書店』は、1924(大正13)年に建築された、レンガと漆喰壁のコントラストが印象的な2階建ての建物。歴史を感じさせる堅牢な雰囲気ですが、意外なことに実は木造建築だったんです。

創業140周年の節目に

今回お話を伺ったのはこの建物を管理している長崎次郎株式会社の社長、長﨑 圭作さん。圭作さんは長崎次郎書店の先代社長の弟さん。お兄さんが2013年に亡くなり書店は一旦閉じられていましたが、建物の価値を活かそうと、圭作さんのはとこである長崎書店(上通り)長﨑 健一社長と共に再開を計画。1年半の時間をかけ耐震補強などを施し、大正ロマン漂う雰囲気を残しながら大規模リノベーション。創業140周年の節目にあたる2014年7月31日、リニューアルオープンしました。1階の書店の運営は健一さんにお願いして、圭作さんは2階に喫茶室を開きました。
「ここ(2階)は私ら家族が暮らしていた住居部分と事務所があった場所です。なので窓から電車通りの風景を見ながら育ちました。兄が亡くなってこの建物をどう活かすか、いろいろ考えたんですが、自分は珈琲が好きだし、お客さんにもここで寛いでもらいたいなぁと思いまして、喫茶室を開いた訳です」。
アーチ窓から電車通りを望む店内には、常連さんらしき方と、観光客らしい方々が、それぞれ思い思いの時間を過ごされているようでした。店内の片隅にはピアノも置かれていて、不定期ミニコンサートイベントなども開催されています。ちなみに圭作さんは道向かいで『次郎楽器』も営んでおられます。というか元々はそちらが本業でした。



「熊本地震はなんとか持ち堪えましたが、結構あちこち傷みました。大規模補修工事がこの前やっと終わったんです」。
スター建築家、保岡 勝也
今年で97年を数える『長崎次郎書店』建物。設計は当時のスター建築家:保岡 勝也氏。保岡は1877(明治10)年、東京生まれ。東京帝国大学工科大学建築学科に入学し、のちに東京駅舎や日本銀行本店などを手掛ける辰野 金吾氏(日本で最初の建築家と言われる)に師事。
大学卒業後は三菱合資会社(現・三菱地所)に入社し、当時三菱が丸の内に開発中だった近代的オフィスビル街の設計に携わります。“辰野式”と呼ばれた赤レンガに白い石を組み合わせた軽やかな作風を引き継いではいましたが、レンガから最先端の工法である鉄筋コンクリート造への移行にも取り組み、大正期前後の建築家達の宿命としてあった“近代化”を我がものとするため情熱を注ぎます。しかし大学院進学のため一旦退職、劇場建築の研究を経て三菱に再入社。その後1年間のアメリカ・ヨーロッパ視察なども経験し、明治45年依願退職。

そして1913(大正2)年、銀座に保岡勝也事務所を開設します。今で言う建築設計事務所ですね。保岡は最初の三菱時代、オフィスビルの設計の合間に『大隈重信伯爵邸洋館』(1902年)の設計を行います。前年に火事で消失していた大隈の自宅を、当時の上流層に定着していた洋館と和館からなるスタイルで再建する計画です。保岡が担当したのは洋館部分だけでしたが、和館に導入された最新式のガスストーブを備えた台所が、後に保岡が住宅建築と台所設備の重要性を主張するきっかけになったと言われています。
1915(大正4)年には『理想の住宅』を出版。その後も多数の著書を発表し、建築作品と共に一般の人々へ住宅の関心を喚起させながら、日本で最初の住宅作家となります。
保岡は住宅の他にも茶室の研究に没頭したり、日本庭園協会設立や東京高等造園学校(現:東京農業大学)では常任理事も務めました。独立後、別荘や個人住宅の設計とともに、銀行建築などの商業建築も多くてがけます。地上3階建てのモダンな山吉デパート(川越に現存)を設計したかと思うと、同じ頃に『茶室の建造物』という本を出版したり、とにかく興味が赴くまま多方面でマルチな才能を発揮しています。その中でも特に、小中規模住宅を建築家の“作品”と呼べるように、その道筋を示した保岡の功績は大きでしょう。保岡の時代、大規模商業建築に比べて住宅建築が軽んじて見られるような時代だったことを考えると、先見の明があったと思う他ありません。保岡は一般大衆の生活の器としての住宅が、将来建築家の重要なテーマになると見越していたのですね。

100年後も街のランドマークに
そんな保岡が長崎次郎書店を設計・施工したのが1924(大正13)年。その3年前に『熊本商工会議所』を手がけているようなので、もしかしてそれを見た長崎次郎(?)さんが「ぅわぃたぁ〜す!!コラどうし!うちん書店もいっちょこぎゃんむしゃんよか設計ばしてもらえんどか?ちょっと保岡さんげに行っちくる!」(※)という流れになったのではないかと妄想します。
※=「わぁ!これはすごい!うちの書店もひとつ、こんなふうにモダンでかっこいい設計をして貰えないかなぁ。ちょっと保岡さんのところを訪ねてみる!」(標準語訳)


保岡:「本日はわざわざ東京まで足をお運びいただきありがとうございます。遠かったでしょう?」
長﨑次郎:「いやぁ東京は3年ぶりですかね、ちょうど岩波書店に用件もありましたので。汽車で丸3日かかりましたばい(笑)」
保岡:「ばい(笑)…。ぅほん。先日はご丁寧に書簡にて熊本商工会議所をお褒めいただきありがとうございます!アレは我ながら力作です。これからは地方にも東京に負けない洒落た建築をどんどん増やしていきたいと思ってます。早速ですが長﨑さん、お店はどんな建物にしたいですか?」
長﨑次郎:「商いの街、熊本新町はこれからもっともっと、人々が行き交う賑やかな街になると思います。街の、いや熊本の未来ば背負うとる子どもたちが、目を輝かせてやってくる本屋を目指しとります。ばぁ〜っと(手を広げて)、目印になるような目立つ店構えが良かです。あと私の名前ば入れちください!」
保岡:「はははっ!いいですね〜。100年後も街のランドマークになるよう立派な建築を設計しますよ!ところで長﨑さん、茶室にご興味は?…」

長﨑次郎と保岡がこんな会話をしたのかどうかはさておき、今では当たり前の建築設計事務所スタイルを、大正時代に始めた保岡は建築家の草分け的存在です。現代では住宅設計からキャリアをスタートし、大型建築に移っていく建築家さんは多いですけれど、保岡の場合はまったく逆。スタートがオフィス街、ほぼ国家的事業です。住宅建築に注力するようになってからも、茶室や造園など、より伝統的でニッチな方向に興味が移ります。日本中が西洋化を目指していた時期に『やっぱり茶室!日本人なら庭だろ!』って言っていた訳ですから。
でも頼まれればデパートでも住宅でもなんでも建てちゃう。多数の著書も残しつつ教育にも携わる。保岡がもし現代に生きたとしても、やっぱり大活躍していただろうなと思います。
そして強く思うのは、建築が大好きだったんだろうなぁということ。
保岡 勝也の建築は全国的に11くらい現存し、そのうち半分くらいが国の登録有形文化財として保存されているようです。世界が気兼ねなく“Go To”な空気になりましたら、ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。
追記
実際に保岡 勝也の事務所を訪ねたのは、長崎次郎書店2代目長﨑 庄平氏。彼が東京出張の際に保岡氏の建築に惚れ込み、設計依頼を決意したそうです。圭作さんによると庄平が目にした建物は『起山房(キザンホウ)』という文具店であったとか。長﨑 次郎さんは建物の完成を見ることなく大正7年に亡くなったということです。

また保岡 勝也が手がけた熊本商工会議所の前身、熊本商法会議所の建物は、木造3階建、延坪数:264坪二合六勺、『トンガリ帽子の時計塔をいただいたモダンな建物』。建築費も当時としては空前の、拾万九千五百五十八円二十五銭(現在の貨幣価値で12億くらいか)。八万円(現在で8,640万円)もの寄付金も寄せられた。大正9年7月12日に地鎮祭、大正10年2月1日に落成式を行なったと記録が残っています。しかし昭和15年元旦、事業増大とやや老朽化したことを理由に、元ヤギデパートを改修して商工会議所機能を移転。昭和20年7月1日の大空襲によって全舎屋消失しました。

長崎次郎書店
登録有形文化財(建造物)
大正 1924
木造2階建,瓦葺,建築面積175㎡
熊本県熊本市新町4-1-19
長﨑次郎喫茶室
tel.096-354-7973
営業時間:11:26 ~ 不定
定休日:なし
長崎次郎書店
細川家の指物師として京都より熊本へ移り住んだ歴史がある長﨑家。長男伊太郎が『静観堂』の屋号で道具屋を営んだ。2階の壁に掲げてあるのはその看板。 令和2年には熊本市『歴史的風致形成建造物』の1号に指定されました